40代でうつ病発症 体験談 その後も繰り返していますがなんとか生きています。
私は、男性55歳の会社員です。
現在は、愛知県にあるエンジンの修理会社で部品やエンジンを購入する業務をしています。
ところで、皆さんは、子供がまだ小学生や中学生で、奥さんが無職だったら、
辛いからと言って、会社を辞められますか?
私には、経済的な問題もあり、会社を辞めるという選択肢がなく、最初は休職を選択しました。
最初のうつ病発症
私が37歳になったとき、兵庫県への転勤が決まりました。
子供がクラスメートと離れることを嫌がったこともあり、妻と娘の二人を名古屋に残して単身赴任したのです。
設備機械の保守契約の更新契約やオーバーホールの推奨などの営業を行うサービス営業の部門への配属になったのです。
それまで、東京や名古屋で機械本体の海外営業や国内営業の仕事をしてきた私にとって、サービスの仕事は畑違いの仕事でした。
担当する客が200件与えられ、その上、新規に納入した新型機械の保守や長期保守の提案、契約業務まで担当することになりました。
毎日忙しく、週3日くらいは、セールスから戻った後、事務所で見積書や提案書を作成する残業をしていました。
夜の11時や12時の帰宅も珍しくなかったです。
5年ほどして、朝起きられなくなり、部屋のドアを開けるのが億劫になりました。
実際には、だいたい決まった時間に覚醒できるのですが、起き上がって現実の世界に入っていくことにすごく恐怖感を感じ、そのまま、また睡眠の世界に戻りました。
悪夢も頻繁に見るようになっていました。
いつも嫌なことを繰り返し考えては、また同じことを考えてしまう。
そんな習慣になっていたのかもしれません。
また、日中ふらつくこともしばしばありました。
子供のころからテレビを見るのが好きだったのですが、おもしろいと感じられなくなっていましたし、ストーリーさえ、頭に入ってこない状況でした。
いつも辛く感じていました。
週1や週2で、名古屋に帰ると、妻から

「いつも、なにかブツブツしゃべっている」

「食べているときくらい怒らずに落ち着いて食べなさい。」
と何度も注意を受けました。
自分でも、お風呂に入ってブツブツ言っていることに気付いていないこともしばしばありました。
ひょっとして、自分はうつ病かもしれないと思い、診断してもらったところ、
主治医の先生は、あっさり「うつ病です。休みなさい」とアドバイスしてくれました。
「なんでもいいから、好きなことをしなさい。嫌だと思うことは、何もしなくていいから」
とも言ってくれました。
結果、6カ月休暇することになりました。
少し回復したと思えたのは、娘を見ていると楽しいと感じられるようになりましたし、
一緒に遊んでいると気持ちが楽になりました。
休暇前は、全然、頭に入って来なかった日経新聞も以前のとおり読めるようになりました。
精神安定剤の他に睡眠剤も処方してもらいました。
眠れなくて、体を疲労させるよりは眠って睡眠をとった方がよいという理由からです。
休暇中、2週間おきくらいに上司には電話をしていましたが、
復帰することを決めた1カ月くらい前、復帰したい旨を会社に伝え、主治医にも診断書をもらい、総務部長と一緒に神戸の産業医のところまで行き、やっと、復帰の手続きが完了しました。
復帰後、1カ月くらいは午前中だけの勤務でした。
しかも、書類の関係ばかりを事務所でやっていました。
周りの好機の目も気になりました。
「今はそれしか方法がないのだから」と自分に言い聞かせていましたが、神戸より西側の方言は、自分には、きつく聞こえましたし、村社会的な会社の雰囲気には、やはり馴染めませんでした。
周りの風景がどんどん色を失っていくようにも見えました。
“村社会的”と申し上げましたが、それは、当時の自分の感じ方であり、この兵庫の事務所は一般的には、「家族的な雰囲気の事務所」と言われていました。
事務所にいるのが辛くて、今まで、外に出てセールスを頑張ったという面もあり、事務所に閉じ込められた復帰後の生活や閉塞感に気持ちは暗くなりました。
総務部長には、とにかく兵庫を出たい。と訴え続けていました。
例えば、東京や大阪や博多や便利なところで生活していた人間にとって、不便な田舎の生活はやはり大変です。
電車が1時間に1,2本しか来なかったり、マクドナルドや回転ずしを食べたくても時間をかけて町に出なくてはならないし、
少なくとも、その時の私は、田舎や未開の場所で生きていこうとするだけのパワーは完全にありませんでした。
復帰後1カ月ほどして、また、総務部長から「今度、兵庫に行く予定があるから、定時後、近くで飲もう」と誘われました。
会食している際、「これからどうしたい?」と聞かれました。
私は、どこでもいいから機械本体を販売する営業部門に戻して欲しい。と答えました。
私の場合、国内営業でも、海外営業でも営業成績だけはよかったため、会社に評価されていると思い込んでいましたが実は周りの評価は、そうでもなかったことを婉曲的に総務部長から伝えられました。
言い換えると、本社を含めて支店でも、営業マンとしての私を受け入れることに手を挙げてくれる先輩たちはいなかったのです。
また、海外輸出入業務も既に、親会社がやることに変わっており、社内では海外業務をやれる場所もありませんでした。
結局、総務部長との話合いの中では結論が出ず、「親会社や知り合いに貿易をやる人材の求人がないか 確認してみる」と励ましてくれました。
海外取引を行う会社に入社
会食の後、1カ月ほどして、総務部長から電話をもらいました。
ラッキーなことに、ある産業機械メーカーで、中国やアジアへの進出を検討している企業があり、転職を勧められました。
その会社の社長と面接して、すぐに採用となりました。
総務部長を含め一部の人は背景をご存知でしたが、基本的には、今後、私がどうするかを伏せて、前の会社は、すみやかに退職しました。
新しく入社することになった会社でも、社長を除いて、私がうつ病で前の会社を退職したことを知る人はいませんでした。
そんな配慮をしてくれたのです。
有難かったです。
新しく入社した会社は地元の名古屋で、まず、兵庫の時のような言葉についての違和感はありませんでした。
主治医の言葉どおり、無理せず、少しづつ仕事をこなせるようになっていきました。
それでも、新しい環境にストレスを感じていたのか、過食や夜の街での飲みは、頻繁になっていきました。
機械の輸出入の仕事に戻ることができて、関係会社との打合せのため、東京や大阪へも行き、また、アジアやカナダや米国への出張も多くなり、気分転換ができて、周りからは少し明るくなった。と言われるようにもなりました。
会社の閉鎖
家族とも一緒に暮らせるようになり、仕事もまあまあ、順調だったのですが、
中国に所有していた工場が倒産したことに伴い、親会社から現在の事業を他社へ売却するよう提案が出されました。
従業員については、現在の会社を退職し、親会社が紹介する関連会社へ入社したり、移籍する方向性が示されました。
会社が閉鎖されるということは、一見、仕事が暇になることを想像しますが、実際はそうではありませんでした。
取引のある会社に事情を説明し、契約を取り消して、あるいは販売権を譲渡して、
関連事業者が、海外メーカーと継続して取引できるよう調整したり、忙しかったです。
会社が倒産する前日まで、バンコクのメーカーまで説明に行っていました。
今、考えると充実した日々でした。なにも悩むこともなく、ひたすらやるべきことをやる日々でした。
結局、前の会社に勤務できたのは、1年半強という短い期間になりました。
現在の会社に入社してから
親会社のアドバイスで入社したのが、現在のエンジンの修理会社です。
私は45歳になっていました。
新しい会社では、入社時から、やることが明確に決まっていました。
1つは、海外メーカーと売買契約更新をすること
もうひとつは、海外市場への進出です。
売買契約や代理店契約などは、過去に何度もこなしてきた仕事であり、比較的取り扱いしやすい仕事でした。
ただ、メインの契約や契約更新が定期的にあるわけではありません。
数か所の契約締結後、私は暇になりました。
正直、何をやっていいのか、わからない状態でした。
それまで、私は、仕事とはどんどん外に出て、受注努力をすることだと考えていました。
なにもやることがなければ、会社は休んでいい。と思い込んでいたところもありました。
新しい会社に入社して3年くらいたったころ、また、朝起きるのが辛くなってきました。
起きたところで、なにもやることがないのであれば、起きる必要もない。
そんな風にも思っていました。
出勤すると、いろいろなことにイライラしました。
「もう、こんな事業辞めてしまえばいい。」と言ってしまったことさえあります。
そして、また、フラフラ感が出てきました。
私は、休みがちになり、いつの間にか有給休暇を消費しつくしてしまい、欠勤になってしまいました。
頭の中が混乱していて、欠勤になると非常にマズイことにも自分の中で気づいていませんでした。
会社からは、少し休むことと、復帰後は、他の部門へ異動することを勧められました。
私は、病気療養という理由で2週間ほど休み、復帰して資材部門に異動になりました。
最初の1年はそれなりに仕事がありましたが、その後、一切、仕事が回ってこなくなりました。5年以上、書類もまわってこないし、取引先も増えていかない。
電話もしないし、来ない。
いわゆる社内失業の状態になりました。
労働局にも相談したのですが、これといった解決策もなく、リストラされるという話もでてこない。
心療内科の先生からは、

「会社のことは考えず、他に興味のあることを見つけなさい。」
とアドバイスされました。
毎日、毎日、何もやることがなく、後悔して、後悔の日々を自分の心に蓄積させていきました。
必要とされていない虚しさも毎日、蓄積させていきました。
今までと違う症状は、野球の中継や実際の試合を見られなくなったことです。
球場で野球を見ていると、自分が今後どうやって生きていけばよいのか、ネガティブなイメージばかりが浮かんできて、どう気持ちを切り替えて、野球を見ることに集中すればよいのか自分を制御することも難しい状態でした。
クライマックスのシーンなのに、フリーズしてしまう自分がいるのです。
とにかく、なにか別のことをやらないといけないと思い、ボランティアを始めました。
土日の市内観光のガイドボランティア, 市の定期雑誌の編集のボランティア、日本語学校の先生、そして、シーンボイスガイドのボランティア(眼の不自由な人のために、映画の間にナレーターをいれる作業です。)を始めました。
もう4年以上になります。
どれも始めてから1年半くらいは楽しくやれました。
それでも、エキサイトするような昔の感覚は戻ってきません。
1週間の内、月曜日~金曜日まではなにもしていないのですから。
土曜日だけでも充実させようと思って、やることを増やしました。
中国語と英語の同時通訳のサークルです。
1週間に土曜日だけ充実するための私のスケジュール
- 8:30 起床 日本語教室へ向かう
- 10:00-12:00 日本語教室で外国人に日本語を教える
- 12:00-13:45 昼食
- 13:45-16:05 中国語講座取得
- 17:30-20:30 英語の同時通訳サークルの通訳練習
さすがに、土曜日は充実した時間と気持ちの良い疲れを感じられるようになっていきました。
日本語を英語に変換する瞬間、英語を日本語に変換する瞬間は、それ以外のことは何も考えず、久しぶりに集中する瞬間が得られるようになりました。
現在の自分
気分が深く落ち込んだり、フラフラしたり、動けなくなったり、12時間以上も眠り続ける
症状は、今も時々訪れます。
最近では、春や冬だけでなく、夏でも秋でも沈みこむことがあります。
ただ、1年半前に抑うつ用の薬を変えて、若干安定した気分を持続できるようになりました。
やはり、うつ症状は、意思とは関係ない脳と関連した病だと感じるようになりました。
考え方も5年前と若干変わりました。
5年前は、辛いことが仮にあったとしても、懸命に働くことが、生きがいの本質だと考えていました。
しかし、今は、会社へ行って、昼ご飯を食べ、決められた時間に体操するだけでいいと自分を許せるようになりました。
会社へ行って、昼食を食べて、また帰る。
給料だけもらえたら、この繰り返しだけでいい。と考えるようになりました。
それから、少し遠い未来や1年先のことは考えないようになりました。
1日のレベル, 1週間のレベル以上のことを考えるとやはり辛くなるからです。
今年の夏は、休暇を取って、中国へ行って、中国語の短期講座を受講しました。
街で、村上 春樹の「ノルウエーの森」の中国語版が売られていました。
私は何かの啓示のように思えて、この中国版の本を買いました。
なぜなら、この本の主人公の考え方で生きていけば、もう少し楽に生きられるようになると思ったのです。
この本の主人公の「僕」は、30代(多分)で、ひとつのことを悟ります。
“「僕は」大学を卒業するまでに、すべての会うべき友人に会ってしまって、経験すべきこともすべて経験してしまって、これからの人生は、過去を振り返るだけだ。” と。
私も今、同じように感じています。
何年か前までは、一番大切なのは、「現在」だと信じていました。
また、明るい「未来」のために「現在」を全力で生きなくてはならないと。
でも、現在自分が置かれている状況には、「現在」というものはありません。
ただ、生きて、時間を消費しているだけです。
現在がなければ、未来につながらないので、未来のことは考えられません。
でも、過去を振り返れば、しっかり働けた自分, よくやった自分,いい友人を見つけられたこと, 楽しい思い出, 貴重な経験もありました。
今、強く思うのは、
過去にやってきたことを再開したいと思います。
それは、英語であったり、中国語であったり。
貿易であったり。
大学時代の友人と飲みに行くことも再開しました。
娘も大学時代から東京に出て、今は働いています。
離れてはいますが、小さかったころの娘のことを思い出せば、少し楽しくなります。
現在働いている会社も勤続10年になりましたが、自分には社会復帰を達成したという意識はありません。
うつ症状が完治するとも思っていません。
症状がひどくなれば、また、病院に行き、相談するだけです。
ただ、過去の思い出を振り返って、現在を切り抜けられる力に変えたいと思っています。
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